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【アラベスク】  第12章 マジカル王子様



第2節 権力の天秤 [18]




 去っていく二人の後ろ姿を見つめながら、だが半分はそんなもの見ていない。
 美鶴の気持ちというのは、つまりは、美鶴が何を望んでいるかと言う事か?
 聡は少し視線を落す。
 美鶴は、何かを望んでいるのか? 何かして欲しいという事なのだろうか?
 さらに視線を落す。だがその瞳は虚ろで、不安定に泳ぎ、視界のどこにも定まらない。
 数学の門浦に捕まった時は、助けて欲しいと思っていたはずだ。だが、俺一人ではどうにもならなかった。逆に原因を作ったと言ってもいい。
 火事で家が燃えた時は、住む場所が必要だったはずだ。だが用意してやれたのは瑠駆真だった。
 自宅謹慎だって、解いてやれたのは俺じゃない。
 俺は、美鶴が望む事に、何一つこたえてやれないでいる。
 そんな俺を、美鶴はどう思っているのか?
 唇を噛み締める。
 お前はこんな俺に、何かを望んでいるのか?
 聡は、美鶴のためになりたいと思っていた。今もそう思っている。美鶴のためになりたい。
 美鶴も、それを望んでいるのではないのか?

「金本くんは優しさが足りないんだよっ」

 違うのか? 美鶴が俺に望んでいるのは、役に立ちたいという思いではないのか? ピンチを回避してやれる俺という存在ではないというのか?
 両の手に湧き上がる、暖かい温もり。触れたいと思って抱き締めた美鶴の体の柔らかい感触が、掌から一気に胸の奥まで沁み渡る。
 そんな聡へ向かって、美鶴は激しい非難の視線を向けた。

「サイテーだな」

 夏の夜。誰もいない二人だけの教室に、低く呟くような声が沁みた。
 悪かった。その一言すらも許してはくれない、容赦のない一言だった。
 俺は、美鶴のためにはなりたいと思いながら、美鶴の気持ちなどは何も考えていないという事か。
 優しさが足りない。
 優しさなど、弱さでしかない。女々しくくだらない感情だ。
 だが、その優しさが自分には足りないと、ツバサは聡を(なじ)った。自分の発言がどれほど多くの人を傷つけているのか、自分は気付いていないのだと。
 俺は、涼木を傷つけたのか?
 そんなつもりはなかった。聡はただ、売り言葉に買い言葉で言い返しただけだ。ツバサのような少女なら、あれくらいの言葉で傷つくとは思わなかったからだ。
 目を真っ赤にして自分を面責するツバサ。
 見知らぬ女性と去っていった美鶴。
 俺は、俺はこのまま美鶴の何者にもなれぬまま、ただ無力に遠ざけられてしまうだけなのか?
 美鶴が手の届かぬところへ去ってしまう。
 その恐ろしさを想像し、聡はゴクリと生唾を飲み込んだ。





「本当によかったの?」
 心配そうな智論の顔に、美鶴は胸を張って答える。
「構いません。できれば追い出したかったんですけど、時間も無駄ですし」
 言いながら少し歩調を緩めた。
 それまではズンズンと、まるで智論を引っ張るかのように歩いていた。駅舎から少しでも遠ざかりたいと思っているかのようだった。だが、ここで美鶴はペースを落す。
「それよりもすみません。こっちから呼び出しておいて場所を変えるだなんて」
「あぁ、それは構わないの。ただ、これからどこへ行くのかしら?」
 そう問われ、美鶴の歩調は一層遅くなる。ノロくなったと表現した方がいい。それまでの競歩もどきはどこへやら。対照的に、まるで歩く事を嫌うやる気の無いダイエッターのような足取り。
「あの」
 釣られてペースを落とした智論へ向かって、チラリと視線を投げる。泳いでいた視線がそちらへ流れてしまっただけなのだが。
 これからどこへ。
 実のところ、美鶴にもわからない。目的もなく駅舎を出てきてしまったのだ。
 あの場所で、聡と瑠駆真に聞かれたくはない。智論との会話を二人に知られたくはない。だが、追い出している時間も無駄だ。そんな事をしている間に、自分の決意が崩れていってしまいそうな気がする。
 そんな焦りが、美鶴の歩調を速めていた。
 だが、行く先などない。
 美鶴はもともと学校帰りに寄り道などはしない。放課後になれば駅舎へ直行し、施錠をした後は家へ直行している。駅舎を見つける前は図書館やら図書室やらが主な居場所だった。そのようなところで智論と会話はできない。
 どこへ行くのかと問われて返答に窮する美鶴の態度に、智論は柔らかく苦笑した。そうして、掠るように美鶴の腕に触れる。
「よかったら、この近くの店へ寄らない?」
「え?」
「ケーキの美味しいところなの」
 言いながら辺りへキョロキョロと視線を漂わせる。
「確かこの辺りだと思うわ。でも小さいお店だから満席だと困るけど」
 ニ・三歩歩いては止まり、ふらふらと進んでは辺りを見渡す。
 そんな智論の挙動を邪魔するまいとは思いながら、美鶴はそっと聞いてみる。
「あの、智論さんて、この辺りは詳しいんですか?」
 美鶴の声に、数歩先の智論は振り返る。
「えぇ、学校帰りに時々この辺りへも寄り道したの」
 そうして、学生時代を思い出すかのように、少しだけ悪戯っぽくふふっと笑った。
 その笑顔を、美鶴は可愛いと思った。
 なぜだか紅潮してしまう頬を隠すように、美鶴は少し俯いて、そうですかとだけ答えた。
 そんな相手の態度に気付く様子もなく智論はおぼろげな記憶を頼りに首を振り、美鶴を連れて徘徊すること約十分。二人は目的の店に辿り着く事ができた。
 入ってまず、パンの陳列が目に飛び込んできた。パン屋かと思った。そんな美鶴の態度に智論は笑い、奥を指差す。本当にこぢんまりとした喫茶だった。喫茶コーナーと言った方がいいだろうか。
 どうやら空いているようだ。智論が先に席に座る。美鶴は黙って向かいの席へ座る。
「よかった」
 本当に嬉しそうに笑い、智論はメニューを取り上げて開く。
「ここに喫茶コーナーがあるのって、あんまり知られていないの。だから知った人と出会わなくってホッとするから好きだった。でも席も少ないから運が悪いと満席で、電車に乗ってワザワザ来たのに座れなかった時は本当にガッカリだった」
 当時を思い出すように語る智論は楽しそうで、でも少し寂しそうでもある。同級生と連れ立ってケーキを食べに電車を乗り継いでいたあの頃にはもう戻れない。そんな哀愁にでも駆られているのだろうか。
 メニューを見るとわりとリーズナブルな価格だったが、それでもケーキや紅茶などへの出費は美鶴のこづかいには痛手だ。だが、何も注文しないというワケにはいかないだろうし、場所を変えたいと言っても他に提案できる場所など美鶴には思いつかない。
 仕方なく注文をし、店員が去るのに合わせて背凭れに身を預けた。







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